2005年04月19日

modesty (自己批判と他人批判)

日本の伝統的な美徳観

謙譲語は、自分がへりくだり相手を立てることにより敬う言葉。
自分が一歩下がることで、相手を相対的に上位に見立てる。

この観念は様様な表現の底流になっていると思う。
例えば日本人独特の曖昧な表現と揶揄されるのが、
「そう思わなくもなくもない」
相手に直接意思をぶつけることで相手の感情を害さない為に、
遠まわしにすることで相手に対する配慮を表現に込めてる。
この面倒なくらい複雑な表現には、
私は相手をそれほど大切に思っていますよという暗黙の了解がある。
丁寧な言葉を単に使うのではなく、
このようなおどろおどろしく複雑な表現を使う理由は、
日本人が自己批判を判断基準にしていることに求められる。


例えば、最近でこそ村上春樹のような一人称で語られることが多くなったが、近代小説の多くは三人称で語られている。
一つの考えは、読者の理解に対して影響力を否応なしに与える。
対象を材料とのみ認識することからの各々の純粋な理解を妨げることになる。
同じ発言であったとしても、首相の発言と一学生の発言とでは、受ける印象も大きく異なるだろう。
多くの作者は、自分の考えとして述べるのはおこがましいと考え、
このような形を取ったのではないか。
また、無私に徹することで、
読者の理解に対する配慮をした。
自己批判とは、自分と自分との関係性であり、
他人批判は、自分と他人との関係性である。
自己批判における理解を促すにはできる限り無私である必要があった。
そうすることで、読者は自分の思考と対峙する機会を得ることができた。
その過程は、対象からの自己の思考に基ずく理解を自分の思考に受け入れ、内包しながらその存在を否定することにより、
否定し得ない又は思考の改善の帰着を導くことにより思考の確立を図った。
ただ、この対象は材料といえども、まったく他人の考えが入っていないわけではない。
他人によって作られたものである限り、主観的な見解は示されているに違いない。
人参であれば、普段料理に使う部分のみ切り分ける。
その行為に自発的に疑問を投げかける。
実は、皮の部分も使え、身には含まれない栄養素が入っていたり、ビタミンが豊富だったりと。


一方で、他人批判における理解は、相手が必要である。
相手の思考があり、自分の思考をぶつける。
そこから生じる衝突を糧に新たな思考の形成を行う。
こうした過程を経て存在する思考は非常に強いエネルギーを備えていることが容易に理解できる。
理にかなったものは受け入れ、矛盾したものは捨て去る。
他人批判は、ヘーゲルの弁証法などの近代合理主義が底流にある。
このような思想は、この時代における目まぐるしい変化にある。
産業革命などによる社会構造の変化、市民革命による新たな国家の形成(伊、独)、アジア、アフリカなどへの経済的進出、それに伴う衝突である戦争と。
衝突や変化の累々の山を築き、それを乗り越えるためにこのような合理的な思考特性が生まれた。

では、なぜ日本人の自己批判的な思考を形成するに至ったか。
それは、変化を迫る事件が何も起こらなかったからだろう。
米軍による占領を除いて、日本の本土が異民族に支配された経験はない。
長い鎖国制度により、感性の領域も限定された。
さらに、特に江戸時代では政権を公儀と呼び、政権の考えが社会通念上の考えとされた。そのため、自己の思考は自分の内なるものでしかなかった。この部分は封建的な思考と呼びうるかもしれない。
御恩と奉公といった点からも伺われる。支配者層である武士を組織化するため、感情を封じ込めるシステムを導入している。ただし、これは何も日本に限ったことではない。官僚制など他にも類を見る。
ただ、日本はそのままつい60年前まで、きてしまったが為に過ちを犯した。

自己批判は時代感覚とかけ離れたがために形成された部分もある。
しかし、実は高い時代感覚を有している場合もある。
新しい思考に至らないので、発展しないようにも感じられる。
しかし、自問自答を繰り返すことにより常に懐疑的な態度は、慢心を排除し、盲点を探すのに適している。
この盲点は、時代や環境の変化により異なるだろう。
一方で、他人批判は、ひとたび衝突を経て形成された思考の存在に疑問を投げかけることはない。
なぜなら、対立する対象がその時点では存在しないからだ。
また、対立関係にあるものを捕らえるにも時間を要する。
他人批判は衝突を経ないと新しい次元に至らない。
時代変化は人間の想像をはるかに越えている。
トヨタ式改善とフォードの失墜が好例である。
常に組織体制に疑問を投げかける姿勢と、合理的だと確信した組織体制
の時代変化の不合理性を信じて疑わない姿勢。
しかし、ITとサービスの融合などは、あきらかにアメリカの方が早く発展している。
これは、他人批判の効能といえるかもしれない。

上記のとおり、この二つの考え方は、一長一短である。
でも、実は今自己批判的な思考が必要とされているときだと思う。
中国、韓国の反日感情の高まりは近年稀に見る規模のものだ。
これに対して、他人批判的な思考に基づいて行動した場合。
報復には報復といった形で報復の連鎖を招くことになる。
ここで沈黙することで自己批判を行うべきだ。
そうすることで、相手に対しても自己懐疑の機会を与えることになる。
ここでいう沈黙は対話を拒絶するということではない。
関連する行為全般に対してのみ沈黙すべきだ。
沈黙は金雄弁は銀どころか、投石を招くことになる。
中国に謝罪を求めても、謝罪をしたことになってしまう。
求めるのでなく、引き出すために日本に非がない状態を保つために
自己批判的な態度が求められるのではないだろうか。
posted by shunsuke at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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